2010年12月19日

すっきりしません

なにやら気分がすっきりとしないのは何故なのだろうとずっと考えています。仕事が忙しければ、気分など度外視で仕事に集中するのですが、今、たまたま体が空いてしまっていて、気持ち的にもリフレッシュモードだから、余計なことを色々と考えてしまうのだとは思います。


具体的な事象も何もなく、だらだらと書きます。


はっきり言って、気分がすぐれません。モヤモヤっとしています。胃が重いです。もちろん、なんの問題もなくこんな事にはなったりしません。色々と、モヤッとした問題があるから、グレーな気持ちになるのです。


具体的にはかけませんが、この先の人生、とか、現実的な今の生活は大丈夫か、とか、俺は本当にダメなやつだなぁ、とか思ってみたりと、何でもかんでもネガティブに考えてしまう、そんな感じです。


誰にだってそういう時はありますよね?
こういう事の一番の理由は、何かしらの不安があるからです。ではいったい、僕は何を不安に思っているのかということです。


それがわかれば苦労しません(笑)。


漠然とした不安がいくつもつきまとっていて、多分これはうまくいかない、とか、こんなことをしてしまって俺はまったく、、、とか、ああだいじょうぶだろうか・・・とか、そういった類のものです。


なんだろう、本当に・・・。
ひとつ、ふたつくらいの不安なら、こんな風にはならないと思います。なんだか、いくつもの大小様々な「漠然とした不安」がポツポツと近くにあるから、こんな感じになってしまっている気がします。


自分のこれまでの生き方がダメとか、考え方がおかしいとか、他の人への対応の仕方が間違っているとか、そういう明確な理由なり根拠なりがあれば、対処のしようもあると思うのです。でも、そういうものじゃない。はっきりしなくて、「うがぁっ!!!」と叫びだしたくなる、そんな気分です。


不安があっても、対処方法を考えることができるのならば、こんな風にはならないだろうなって思います。なんだか捉えどころがないから、ぽわ~んと無重力空間に放り出されてしまい、周りに不安という風船がプカプカ浮いている、そんなイメージです。捕まえて、割ってしまえばいいんだけれど、自由に動けないし、不安風船も勝手気ままに動いているし、ただただ無力感に苛まれ、疲れていってしまうのです。


ずっとずっと、いつも一所懸命考えて行動して生きてきましたけれど、別にその結果である現在の自分が正しいとも間違っているとも思いませんけれども、身につけてきた様々なスキルや能力とはまったく別の世界に自分の本体はあるものなので、いざ、こういう気分になったときには、構築してきた自分の武器って、あまり役に立ちません。


。。。誤解のないように書いておきますが、死にたいわけじゃありません。元気に前を向いて、粉骨砕身で仕事をするし、いろいろなことを真剣に考えていこうって、思っています。それでも、なんだか、落とし穴に落ちてしまったように、こんな気分になることがあるんです。不思議な話です。


blogっていいな、って思います。こういう時、好き放題、思ったままを書けるから。


さて、どうしようか~
酒のんでも駄目だろうなって思うし~
もうたくさん寝たから、眠って忘れるということもできそうにないし~
不安を忘れちゃえ、とか思いますけど~
忘れられるなら、こんな事書かないし~


ふっふっふ。
駄目だ、これは・・・


最後の手段かな、これは。
さて、最後の手段とはなんでしょう?


答えは・・・
「逆切れ!」


こんの野郎! 俺を不安にさせているのはいったい何だ!
こぉらぁ~! ぐがぁぁぁぁぁぁ!!! ふざけるな~!


って、相手も見えない状況で、切れまくるっていうのが最終手段です(笑)。
ヾ(゚Д゚ )ォィォィソンナアホナ


そんな馬鹿なことを考えなくていいように、早くまた忙しくなりたいです
(´・ω・`)。


さ~ってとぉ!
好き放題書いて、少しすっきりしたから、呑むか~
ってまだ夕方だった~


駄文ですみませんでした~m(_ _)m




2010年12月15日

ブログを移行しました~思うこと


Windows Liveから強制移行でWordPressを使わざるを得なくなってから3ヶ月弱。もう限界です。何が限界かというと、サーバーの反応が悪すぎて、いちいち「待ち」の時間が発生し、もうイライラが限界突破しました。

サクっと、どこかいいところがないかなぁ、と調べたところ、自分的には灯台下暗し、といいますか、Googleにブロクサービスがあることを発見し、そちらに移行しました。サーバーの反応も早く、記事も書きやすいので、Goooooood! と思っております。

実は、ブラウザもGoogle Chromeを使っていまして、メールもGmailを使っています。プロバイダメールもあるのですが、メーラーを立ち上げるのが面倒で、だんだんとGmailに移行しつつあります。iGoogleもウィジェットが充実していて良いと思いますし、なんと、日本語入力システムもあるんですね、びっくりしました。これもなかなか快適です。

しかも、すべてが無料だものなぁ。日本語入力なんて、ATOK以外に使えるものなんてない、と思っていたのですが、これだけ使える入力システムが無料となると、パソコンのツールにおカネを払うこと自体が馬鹿らしくなってきてしまいます。

Andoroid OSも無償で出てくるようですし、今後のパソコン世界はGoogleが席巻しそうです。Microsoft、大丈夫か? うん、多分もうダメでしょう。Appleはまあ、独自の道を歩んでおりますが、パソコン世界ではちょっと、、、という感じです。

Googleがこれから成長するためには、Adobeがほぼ網羅してしまったDTPの世界をどうやって取り込んでいくかという戦略が必要になるでしょうね。個人的な予想ですが、いずれ、AdobeのInDesign、Photoshop、Illustratorといったツールと同等のものを無償で提供するようになるんじゃないかと思ってしまいます。そうなったらもう、Adobeもおしまいです。

僕は別に、MicrosoftもAdobeも嫌いではありません。だらしないと思っているだけです。たしかに、あれだけの大きな会社ですから、収益が大事なのはわかりますけれど、あまりにも保守的すぎて、ユーザーに負荷をかけすぎている気がしてならないのです。このblogの最初の方の記事にも書きましたが、ユーザーを軽く見ているフシがあって、どうも頼りないんです。

Googleのビジネスモデルって、かなり独特ですよね? それが今、とても良い方向に進んできているし、ユーザーの負荷が殆ど無い状態で様々なツールを提供する唯一の企業だと僕は思うのです。こういう企業こそ、さらに成長して欲しいし、もうパソコンの世界を制覇してしまえ、くらい思ってしまいます。

AdobeもMicrosoftも、今更ビジネスモデルを変えられないでしょうから、これから苦しいと思いますよ、まじで。




2010年12月12日

モノの値段


車のバッテリーが上がってしまったので、気持ちが憂鬱になっておりました。バッテリーって高いですし、、、。以前に乗っていたステップワゴンでは、ディーラーで交換したときにはなんと、工賃込みで¥30,000もしたことがあり、ぎょえ! っとなっていたのですが、今年の初め頃に、やはりステップワゴンでバッテリーが上がってしまったときには、JAFにお願いしてみたところ、工賃はもちろん会員なので無料で、バッテリー本体が¥17,000とのことで、おおっ、それは安い、と思ったものでした。

でも、今乗っている車は、一応スポーツカーなので、バッテリーは高いだろうなぁ、となんとなく危惧していて、車関係はなんとなくオートバックスで、という頭もあったものですから、調べたところ、なんと¥28,000もするではないですか! しかも工賃が別でかかるし、もうバッテリーが上がっちゃってますから、オートバックスまで持って行かれないし、これはまたJAFだな、と思ったとき。

うーん、人任せにせず、自分で交換しようと、今更ながら思ったのでした(笑)。

なぜ、人任せにしていたかと言いますと、、、恥ずかしい話ですが、、、自分、不器用なんです。。。何かをしようとすると、必ず別の何かを壊すという、優れた特技を持っており(笑)、やりたくないんですね、実は。そしてまあ、一応、大事な車なので、自分でやってみたら、ほかの何かが壊れた、なんて、しゃれにならないので。。。

しかも、この車のバッテリーは、とてもすごく変な位置に付いていて、エンジンルームを開けて、自分でできるかどうか確認してみたら、うーん、微妙。。。ステップワゴンみたいに、手前にただぽつんと付いていればいいのに、右奥にカバーが付いて鎮座ましましているわけです。カバーを開けたら、またこれが、取り出しづらいのが一目瞭然。。。でもまあ、試してみたらできそうな気もするので、一念発起してネットでバッテリーの通販を調べました。バッテリーの型番をGoogle検索して一番上に出てきたところでいいやと思い、つらつらとWebを見てみました。

そうしたら!
なんと安いのでしょうか。¥8,900ですって!
定価¥31,500のバッテリーがですよ?
しかも、送料無料!
古バッテリー回収無料!

信じられな~い 、と思いつつも、この時点で自分で交換することに決定(笑)。早速注文しました。

注文確定メールによると、在庫がないのでひとつ上のクラスのバッテリーを同じ値段で発送しました、とのこと。おおっ、ラッキー。容量が少し大きいタイプのようで、この通販サイトで¥9,800のものでした。定価が¥39,800。。。どうして? と思いますが、まあ安いんだからいいでしょう。

。。。まあ実は、これが言いたくて書いている訳じゃありません。もちろんこれだけでも「モノの値段って、いったい。。。」という話ですが、まだ話は続きます。。。

先ほどバッテリーが到着しまして、格闘すること20分。何とか無事交換を終え、すばらしい勢いでエンジンが始動し、なんだか久しぶりに達成感を味わい(笑)、幸福感に満たされていた自分でした(爆)。

古バッテリーを箱にしまって自分の部屋に引き上げ、なんとなく、送ってもらったバッテリーの性能を見たくてGoogle検索したところ、、、なんか、どきっとする文字が。。。

¥5,980?

見間違い、だよなぁ、とクリックすると、なんと~同じバッテリーが¥5,980で売ってる~
さらに検索結果を追ってみたら、はい、ご想像の通り、さらに安いところがあり、なんと¥4,980で売ってました~

。。。なんなの、いったい。

これこそが、モノの値段って、、、という話でした。

まあ、そうはいっても、安いところは回収してくれなかったり、送料がかかったりするので、それはいやだなぁ、という思いはあり、また、ページがいかにも通販ショップらしい作りで、大丈夫かな、なんて思ったりしてしまうところだったということもあり、まあいいや、と思っています。今回購入したところは、説明がすごく丁寧で、バッテリー交換方法をYouTubeに紹介していたりとか、まあ、そういう意味で企業努力をしているなぁ、と感じたので、値段よりはむしろ、、、と自分を無理矢理納得させてます(笑)。

しかしまあ、定価数万のものが数千円で売られる世の中って、正しいですか?
というか、そもそも、定価が間違っているんじゃないの? って思いませんか?
さらに言えば、ディーラーやカーショップの値付けそのものもおかしいんじゃないですか?

そんなことを考えつつ、なんだか、もっと調べればもっと安く買えたのに~という後悔のような感情がわき出すと同時に、世の中のさまざまなモノの値段って、「デフレ」だから安いとかじゃなくて、そもそもの「価値」のとらえ方や考え方がおかしくなっている、そんな気持ちにさせられた出来事でした。

少しでも安く買えれば、それはうれしいけれど、本当は高いものが安く買える世の中って、なんか違う気がします。
。。。本当は何でもかんでも安いんじゃないの? (疑)。

ははは。。。

2010年10月19日

<続>おしりが痛いときの対策(シモの話なので痛くない人は読まないでくださいね)


続きです(笑)。書き忘れたこともありましたので。引き続き、シモの話ですので、痛くない人はスルーしてくださいね。



昨日の朝、久しぶりに悪化して、対策を講じたところ、夕方には悪化したことを忘れ、夜はまあ、いつも通りに、飲みましたが、、、今朝、特に何も問題なく、という状況です。

とにかく、原因は、鬱血することにあるらしいのです。医者に聞いたのか、ネットで読んだのか、忘れてしまいましたが、鬱血して悪化することを、尾てい骨を摩擦することで血行をよくするから、良くなるのだと、言うことのようです。

で、昨日、書き忘れたのですが、服の上からこすっても効果がないように思います。直接、尾てい骨をこすらないと熱くなりません。熱くなることが肝要なのか? と言われると、僕にはわかりませんが、僕は直接こすっています。

シモの話なので、なるべく直接的な表現は避けましたが、なかなかこういった話題は書きづらいですね。。。

肝心なのは、悪化して、対策して、良くなったからと言って、すぐにやめてはいけない、ということだと思います。良くなったからと安心してやめてしまうと、またすぐに悪化します。それはなぜかというと、根治的な対策ではなく、あくまでも対症療法だと思うからです。つまり、原因をすべて取り去っているわけではなく、悪くなった状態を良い方向に持って行くだけ、ということだと僕は感じています。

ですので、良くなったと思っても、僕はしばらく続けています。そしてしばらくは落ち着いて、また座りっぱなしで仕事して、毎晩飲んで、辛いものも食べて、あらあら悪化しちゃって、またこすって、、、の繰り返しです。

でも、病院に行くことを考えたら、全然楽です。もう、こういう人生なのだと、時に「こすって」生きていく人生なのだと、思って毎度、対策してます。

繰り返しになりますが、この記事と前回の記事について、一切の責任は負えませんので、「治らないじゃないか!」とか、苦情はご勘弁くださいね。。。

さて、今日も頑張るか~仕事~。

2010年10月18日

おしりが痛いときの対策(シモの話なので痛くない人は読まないでくださいね)


「日本、もうダメか、やはり」の続きを書くのかと思ったら、こんな記事ですみません。。。先ほど予定通り、三菱東京UFJの上席の方はお見えになり、話しました。これまでの顛末含め、後日まとめて書きたいと思っております。

さて、おしりが痛い=「痔(ぢ)」の話です。シモの話なので敬遠される方はどうかスルーしてください。

なぜ、このようなことを書くかといいますと、もちろん自分がそうだからです。でかい体でデスクワーク、しかも、毎日十数時間もいすに座りっぱなしで仕事をしていますから、どうしても負担がかかります。背中や腰や肩や首はマッサージで何とかなりますが、こればかりはどうにもなりません。

しかも、お酒が大好きで辛いものが大好きなので、もうてきめんです。しかも寒いのが好きですから、悪化の一途をたどるわけです。それでもなお、僕は手術も投薬もせず、今のところ過ごしてきています。

ですが、10年前くらいでしょうか、もう手の付けられない、というか、詳細は省きますが、とにかく痛くて痛くて座っていられないし、トイレの時は阿鼻叫喚です。病院にも行きました。もちろん手術を勧められました。でも当時は今以上に忙しく、手術など受ける余裕はなかったし、手術の経験談を読んで、ああ、僕には無理、と思いましたので(僕はすっごい病院嫌いです)、投薬で何とかしてとお願いしました。とりあえず、座薬と飲み薬をもらってしのぎましたが、ちょっと収まってまたひどくなる、そしてだんだんひどくなっていく方向なんですね。

酒も断ったし、冷房も使わずに耐えました(夏でした。。。)。辛いものなどもってのほかで、テレビで辛いものが映るとびしびし痛くなる、そんな状況でしたから。。。

もう、懸命に情報を探しました。テクニカルライターの名にかけて(笑)、ネット検索しまくりです。そして、「ん?」と思う対策を見つけたのでした。

。。。なぜ今、こんな記事を書くのか、といいますと、ふっふっふ~、久しぶりに悪化したんですね~。あわわわわ、です。で、また対策を施しているのです。で、この情報って、実は誰も知らない気がするのです。当時、ググった結果の300件目くらいだったでしょうか、妙に怪しいサイトを見つけたのでした。

そこに書かれていた対策を、ダメ元でやってみたところ、快方に向かったのです。1ヵ月ほど毎日繰り返し繰り返し実行していたところ、なんと普通に戻っちゃったんです。

前置きが長いですね(笑)。対策は以下の通りです。勧誘でも怪しい療法の紹介でも何でもありません。

四つん這いになるか、中腰でもかまいませんが、尾てい骨の先や尾てい骨全体を熱くなるほど2,3本の指でこすってください。だいたい100回くらいこすれば、摩擦熱でかなり熱くなります。それをただ、毎日毎日繰り返すだけです。

僕は、この情報を検索したとき、とてもひどい状態で、わらにもすがりたい気持ちでしたから、1日に何度も100回ずつこすりました。外出先でも何でも、トイレに行ったときに必ず個室でこすりました。それをずっとずっと続けて1ヵ月ほどで、すっと引っ込んだのです。そこに至るまでのプロセスにおいても、だんだんと良くなっている実感があり、うーん、この情報は埋もれていてはいけないなぁ、と当時も思いました。ですが、当時はblogなどもなく、周りで困っている人に教えてあげるくらいのものでしたけれど。

特に顕著だった例は、友人の友人の話ですが、長距離トラックの運転手さんで、もう長患いでずっと出っぱなしというひどい状況だったそうです。友人にこの対策を伝え、そのトラック運転手さんはだまされたと思って毎日やってみたそうです。そうしたら、1ヵ月でとりあえず中に引っ込んだそうです。

良かったなぁ、と思いつつ、そんなにひどい人にも効くんだ、とにんまりした僕は、ずっと飲み続けているんですね(←おバカ)。そして、具合が悪くなるとしばらくこすり続ける、ということを繰り返し、今があるのです。

もし、悩んでいる方がいらっしゃいましたら、試してみてはいかがでしょうか。

ですが、お断りしておきます。
僕は医者でも何でもありませんし、情報源も不明です。そして、あらゆる症状に効くのかどうかなんてこともわかりません。ただ、自分は、それで助かった、ということです。ご自分の責任においてお試し頂き、もし改善されたら、よかったですね~という程度の話です。改善されなくても、当方は一切の責任を負えません。誤解のなきよう、お願いいたします。

さて、こするか。
まだまだ忙しくて、座りっぱなしだし~(悲)。

2010年10月15日

日本、もうダメか、やはり(その2)


連載にする気はなかったのだが、前回の記事の続きとなる。

詳細を書かないままで恐縮だが、今回の件で金融庁ホットラインに電話して苦情を申し立てた。もちろん、三菱東京UFJの本部にも電話し、苦情を申し立てた上で、金融庁にもこの件は相談します、と断った上でのことだ。

脅す気もないし、大人げなく荒れ狂うつもりもない。何をしたところで、僕の現状は社会的弱者に位置付けられ、金融機関は何もしてはくれないからだ。

だからこそ、僕が今いるような、世間の狭間にいる人たちは、声を上げなければならないと強く思う。

来週の月曜日、三菱東京UFJ銀行の直接の担当の上席が、詫びにお伺いしたいと、先ほど連絡が来た。わびられても、僕の希望や要望は叶わないのだが、来るというところは好印象だ。

それにしても、そういった結論が出るまでに一週間以上の時間がかかっている。何をしているのだと、言いたい。

繰り返すが、詳細も書かずにこのような記事では何もわからないと思うのですが、とりあえず覚え書きと言うことで。決着が付き次第、詳細を書きます。賛否両論が巻き起こるとは思いますが。

。。。まあ、このblog、誰にも読まれてませんけれども(笑)。

とにかく。
動脈硬化を起こしているメガバンクという印象だ>三菱東京UFJ銀行

念のために書いておくが、意味なく印象を悪くしたくて書いているのではない。僕の印象がこれなのだから仕方がない。

2010年10月6日

日本、もうダメか、やはり


怒り心頭で、まともに書けないが、日本という国はもうダメなんだろうと、思った。
いずれ詳しく書くが、今はとにかく、覚え書きで。

三菱東京UFJというメガバンクが、一般利用者に対してどのような態度で臨んでいるか、今日の出来事でよくわかった。いかに高慢で高飛車であるかを当の銀行がわかっていない。冷静に、マニュアル通りにしているのはよくわかった。そして、それがいかに「だめなこと」であるかをわかってほしい。

利用者の事情を考えない、自分たちのことだけの段取り。
そして、それさえもきちんと行えず、利用者を貶める無能な担当と上席。

そういう銀行を作ったのは、ほかでもない、国だ。
僕は悲しい。

だって、こんなシステムでは、弱者は絶対に這い上がれない。
この日本では。
きっかけさえも、与えられない。

そう、確信する。

またいずれ、書く。

2010年10月5日

本当に正しいのは何?


太りすぎだから、やせなさいと、医者に行くたびに言われます。twitterのプロフィールにも書いていますが、自分は192cm/100kgという生まれつきの大きな体をしています。

この身長での理想体重は約82kgなのだそうです。そして実は、一昨年、ダイエットに励み、94kgまで落としたことがあります。しかし、真夏の最中に寒くて仕方がなく、これは本当に自分の体なのだろうかと思い、ダイエットをやめました。

ダイエットをしなければならない事情を抱えています。太ったままではいけない体の状況です。だから本当は医者の言うとおりにしなければならないと思うのです。でも、元気がなくなってしまう。それは本当にいいことなのか? と今でも思っています。

学生の頃は、78kgでした。やせてました。社会人になって、飲む機会が多く、からだが大きいこともあって、ほぼ無制限に暴飲暴食を重ねてきました。そして、あれよあれよという間に、体重は120kgまで増えたのです。それは異常だったでしょう。そう思います(笑)。そのまま二十年が過ぎ、日々食べたいだけ食べ、飲みたいだけ飲み、吸いたいだけタバコを吸っていました。

そして一昨年、とうとう、医者に行く羽目になりました。なんだか体がどんよりとして重いのです。高校からの友人が開業医をやっており、「お前が病気になったら診てやるから」と言われていたのですが、ついぞ面倒で診てもらったこともなく、こんなことならば早く診てもらえば良かったと思っても後の祭りで、見事な糖尿と高血圧症でした。

そしてダイエットをし、約1年で正常値寸前まで回復したのですが、もうそのときはふらふらで、それこそ24時間365日パソコンに向かって仕事をするような生活でしたから、意識はもうろうとし、気力は萎え、もうダメだ、と思い、ダイエットを中止し、今があります。

ただ1つ、メリットがあったのは、ダイエットをすると言ってもただ痩せるのは嫌だったので、食事療法と毎日のウォーキング1時間でダイエットをしていたのですが、ウォーキングの際には両手に1kgずつ合計2kg+両足に2kgずつ合計4kgの総合計6kgの重りを付けていました。これによって、ほぼ脂肪→ほぼ筋肉になったのです。それは今でも変わりません。腹回りは脂肪がありますけれど(悲)。

そんな状況でも、医者や保険会社は「体重」しか見ません。成分(笑)は無関係なようです。それは本当に正しいですか?

しかも、もう歳ですから、さすがに昔ほど食べたり飲んだりできません。。。まあ、そうは言ってもこの体なので、毎日どれだけ飲んでいるかをここに書いたら、皆さん、仰天されると思います。

でも、それは、自分の体が欲しているからです。欲しているものを獲得せずに無理に我慢しているより、欲して満足して毎日を過ごす方が正しいと僕は思うのです。。。そう思いながらも、やはり、合併症とかは怖いので、自ずと我慢しようとしてしまうのですが、そうするといらいらしたり、体に元気がなくなったり、気力が失われたりします。

正直、板挟みで困っています。もう、この体になってしまっていて、それでもなお体は欲しているという状況を、僕はどうすればいいのでしょうか。

人生それほど長いものではないと思います。どこかで苦しみ始めるとしても、我慢した結果そうなってしまうことだってあり得るわけで、これはもう賭けだな、と思っています。

我慢し続けて死ぬ人生と、我慢せずに途中から苦しみが始まって死ぬ人生と、どちらがいいのでしょうか。

僕は、もう、決めています。後者です。そういう奴なのだ、と言われれば、そうですよ、と言い切ります。そして、苦しみが始まった途端、「ああ、我慢すれば良かった」と思うのです。もう、自分の性格ですから、わかりきっています。「やっぱり我慢しておけば良かった、苦しいよう」です。絶対にそうなります。

でも今は、我慢しません。仕事をきちんとやりきりたいし、いろいろなことを考えるためになるべく平静な脳みそを常に保ちたいのです。

本当に正しいのは、何なのでしょうか?

2010年10月2日

思いを馳せる


仕事が忙しいのに、blogを書いている場合じゃないとわかってはいるのですが、仕事「以外」の文章を書かないと落ち着かないのです。

最近、新聞で読んだのですが、グリーゼ581gという太陽系外惑星が地球の環境に近くて、生命の存在の可能性があってもおかしくない、と言うことで、久しぶりに僕はどきどきしました。

一応、理系と文系の両刀と自認していて、少しだけ理系に傾いていると思っている自分としては、幼い頃から宇宙に対して漠然とした想いがあり、いろいろな本を読み始めてから小松左京氏のSFに出会い、むさぼるように読んだものでした。

宇宙物理学とか、天文学とか、目指してみたいなぁ、と10代の頃に思ったこともありましたが、そこまで僕の脳みそは傾いておらず、ただただ、一人の地球民として、誰かが調べてくれて公になった情報を見る立場としてこれまで生きてきました。

小松左京氏の作品については、いずれまた感想なども書く機会があると思いますので、ここでは軽く流しますが、とにかく、小松氏の作品はSFと言えども、全くの「文学」であり、ファンタジーだけでなく、むしろ、人間とか生命に重きを置いているのです。僕は、めまいがするほどの感動と驚きを読むごとに感じ、今でも、何度も、ほぼすべての作品を読み返しています。

また、何年前のことか忘れてしまいましたが、NHKブックスから「異形の惑星」という本が出版されました。タイトルを見ただけで、読みたくて仕方がなくなり、確か大阪からの出張帰りの新幹線に乗りながら携帯でいろいろと見ていたときにその本のことを知り、なぜか京都で降り、京都タワーの中だったか近くだったかの書店で買い求め、帰りの新幹線で読んだという思い出があります。

「異形の惑星」が書かれた頃の系外惑星の状況というのは、この本にも書かれていますが、まさに「異形」なものばかりであり、とても生命が(特に地球人的生命が)存在することなど不可能な惑星ばかりでした。

ああ、やっぱり、地球のような惑星は存在しないのかなぁ、と、読了後におもったのを覚えています。

そして今、グリーゼ581gという惑星の存在が発見され、もちろん僕の胸はどきどきし、もっと調査が進んで詳細な情報を知りたいと思うばかりの今日この頃なのですが、果たして「行く」ことはできるのか? と現実的なことを思ってしまいました。

確かな情報であったかどうか、うろ覚えなのですが、宇宙戦艦ヤマトなどに登場する「ワープ航法」は物理的に不可能であることが実証されたと言うことを何年か前に何かで読んだ覚えがあり、もし居住可能な惑星が見つかったとしても、実際に行くためには、相当に近くなければだめなわけです。

グリーゼ581gの情報をネットで調べ、そこに書かれていることを読み進めてみたところ、地球との距離は20光年とのことでした。

。。。微妙か? でも「20」だし。

1光年がどれほど長大な距離であるかは知識としてもちろん理解しています。でも。「20」という数字は小さいですよね? 宇宙の年齢は150億年であり、大きさは一説に寄れば(膨張速度が光速を越えているので)半径150億光年を超えると言われています。

150億の中の20。。。
よし、と正直思いました。

早速ネットで、現在の最速ロケットでどのくらいかかるものなのかを調べましたが、、、その結果に愕然としました。

。。。75万年

75「万年」ですよ? どれだけですか。開いた口がふさがらないとはこのことで、しばらく呆然としました、まじめな話。宇宙を舐めてはいかんです。こんな距離、ずっとロケットが最大速度で飛ぶことさえ理不尽な話ですから、もう本当に現実的ではないですよね。

こんな時、せめて思いを馳せて、夜空を眺めながら、酒でも飲むしかないのでしょうね。

2010年9月30日

blogの強制移動について


結構長い間、Windows Live Spaceを使っていたけれど、いきなりサービス終了予告がでて、何の留保もなくWordPressに移行しなさいときたもんだ。

Microsoftって、そんな会社なんですね。知ってましたけど。

僕はIT関係の仕事をしている。と言っても、製品開発ではない。ユーザー寄りの仕事をしている。だからというわけではないけれど、製品を開発・販売している会社に対しては、それなりの意見を持っている。

仕事をする上で、MicrosoftのWindowsやAppleのMac OS、そして、Adobe Systemsのアプリケーション群は欠かせない。だからこそ、常々思うのだ。

もっと、ユーザーのことを考えてよ、と。

これらの企業が果たしてきた功績は認める。十分に認めている。だけれども、最近、ユーザーが蔑ろにされてないでしょうか? と思わざるを得ないことがあるのだ。

頻繁なバージョンアップやアップデート、古いシステムやアプリケーションの切り捨て、不具合への対応等々、規則とかルールとかで縛りに縛って、ちょっと踏み外すと、もう相手にしてもらえないのだ。それが現実。

大きな会社が生き残っていくために、特に現在の世界的大不況の中で、それはそれは努力をされているのだと思うし、大変などという言葉だけでは賄いきれない現状があるんだろうと想像する。

でも。
ユーザーを置いてきぼりにしちゃ、だめだよ。
ユーザーがあってこその、あなたたちでしょ?

話が広がりすぎてしまうので、戻すけれども、Microsoftほどの企業が、自前のblogサービスを充実できないから他のサービスに丸投げするなんて、要は、僕にはとても信じられない話なのだ。

そんなに余裕がないんですか?
そんなに技術がないんですか?

僕の気持ちだ。

もっと頑張ってください。>Microsoft様。

2010年8月1日

熟議


新聞を読んでいて、熟議という言葉が目についた。管首相がスウェーデンの高福祉・高負担社会をモデルに再建を図ろうという主旨に対して、学ぶべきはスウェーデンがいかにそのような社会を構築したかである、と言う説明の中で使われた言葉だ。スウェーデンの社会構成をそのまま日本に持ち込むのは難しいが、スウェーデンの現在へのプロセスにおける政治のあり方は学ぶところがあるのではないか、とその記事は結んでいる。

まあ、その記事の内容の是非はどうでもいい。僕は、これから数年とか数十年程度では、日本が、アメリカが、欧州が復活することなどないと思っているからだ。

なぜそう思うのか。思慮が足りないとか、足の引っ張り合いはやめろよとか、とてもたくさんの切り口があるけれども、僕の考えは、「人間はまだまだ未熟だから」と言うことなのである。

技術や科学が格段に進歩してから、果たしてどれだけの年数が経ったというのだろうか。およそ、だけれども、たったの100年くらいではないか? 日進月歩という言葉では足りないくらいの飛躍的な発展を遂げている人間社会に置いて、置いてきぼりにされているのはまさに人間そのものだと僕は思っている。つまり、発展中の現代社会に置いて、自らを置いてきぼりにしているのが人間自身なのだと思うのだ。

生活は便利になり、うーん、便利になりすぎていると言ってもいいかもしれないけれど、それらの便利さを「道徳的に使える」ように人間そのものは成長してきたのだろうか。そこに落とし穴があるのではないかと思うのだ。

道徳的、と言う言葉はあまりよくないけれど、技術や科学の発展レベルに相応した成長をしていないから、こんな世の中になっている気がする。

アメリカの核ミサイル発射ボタンを押すことを担う人が時に発狂するという話を以前読んだことがある。そうだろうなぁ、と僕は想像できる。
高性能ですごい馬力の車が手に入ったら、制限速度なんか無視して思いっきり走ってしまう人がいる。そうだろうなぁ、と僕は想像できる。

追いついていないんだよ、人間が。便利なものやすごいものをたくさん作り出すけれども、それをいかに「道徳的に」使うかについて、人間は考えていないんだ。作れるから作ったし、すごいから売れるし、経済も発展するし、何となくみんなお金を持ってしまったけれど、使い方をよくわかっていないから、次々と飽きて、さらなるものを求めて作り、それを繰り返したあげく、ほしいものが「お金」そのものになってしまっている現在。そういう社会で生活したいのか本当に? と僕は思う。

熟議。熟考と言ってもいいかもしれない。どれだけの時間が必要だとみんなは思うのだろうか。大体、そもそも、熟議・熟考できるほどに人間という種は成長しているのだろうか。大局をみることができず、みんなが平坦な場所で言い合いをしているだけで、結局はさまざまな妥協をしてことが収まり、やがて妥協はほころび、新たな問題を生む。そういうことを繰り返しているだけなのではないだろうか。

僕は思う。いいよ、それで、って。そうやって時が経ち、やがて人間は精神的に成長するのだと信じることができるのであれば。でも、僕は今、そういう将来を信じることもできない。

スパンが短いんだよ、みんな。孫の代までの借金を抱えて、なんてことを言えるのならば、孫の代までにどのように成長していくべきかを今の大人が考えなければ、子供も孫もひ孫だって、同じ道を歩むんだよ。

寿命が短いからなんだろうなぁ、って思う。100歳まで生きたとしても、元気にやれるのは60歳くらいまで? うまくやれば70歳、80歳でも活躍できるとは思うけれど。社会に出てある程度の基礎ができるのが大体30歳くらいだから、実働50年。たったそれだけの時間で、そんな短いスパンで、これだけの発展の中で人間が成長するって、よほどのシステムがないと「無理」でしょ。

僕は思うよ。このままだったら、人間は自ら作り出したもの(道具に限らず、政治のあり方とか、社会のシステムとか、いろいろな要素)によって、滅びる。種としての自殺に等しいはずだ。その第一歩を踏み出しているのが「現在」じゃないのかなって思う。

せめて、1000年くらいのスパンで行く末を考え始めたらいいのに。今からだって遅くないと思う。今頑張っている人たちだって、いずれは死んでしまってこの世からいなくなるんだから。今後を支えていくのは、後に続く子供や孫やひ孫でしょ? 何で、日本では子供が次々に痛い目に遭っているの? それって、後のことを考えていないって、今がよければそれでいいって、宣言しているようなものじゃないか。

自分個人の寿命はさておき、誰の子供とかそういうことも棚上げして、人間がいかにこのまま高度な社会を維持しつつ、地球に生き残っていくべきか、100年、1000年、10000年のオーダーで考え始めるべきだ。僕らは未熟だから、未来の人間からすれば笑っちゃうような発想しかできないかもしれない。でも、そういうことをすべきだという考えを確立するには、ちょうどいい時期なんじゃないだろうか。どうでしょう?

政治に身を置いているヒトには、そういうことを熟議してもらいたい。切にそう思う。

2010年7月27日

甘い夢


自分には果てしなく厳しく、他者には甘く許し、己を磨きに磨き上げるつもりで仕事をしてきた。その結果、プロフェッショナルになれたと思っている。クライアントに信頼を得られるかどうか、そして、金を稼げるかどうかがプロと見習いの境目だが、どちらも達成したと自分では思っている。

決してMではなく、限りなくSに近いと思っているが、Sである自分がとにかくきちんと仕事ができる自分になれるように自分を鍛え、仕事についてだけ言えば、ある意味、達成感がある。

達成感があるからこそ、もうこれ以上、この仕事での張り合いがないし、果たして僕は、仕事のために何を犠牲にしてきてしまったんだろうと、ふと思ってしまったりするのだ。もちろん、生活しなければならないから、より多くの金が得られればうれしいし、仕事を依頼してくれたクライアント二喜ばれてまた次の仕事をいただいたりすることの喜びはかけがえがない。

だがしかし、と思ってしまうのだ。

「24時間・365日、働きます」がスローガンだった。激しく誇張したスローガンではあるが、気持ちは常にこの通りだった。だから、生活していく上での最低限のこと(寝る、食べる、移動する、など)以外はすべて「仕事」だった。もう何も言うなというくらい、仕事だらけだった。そうしないと、依頼された仕事は終わらなかったし、そもそも、僕の仕事はとても時間がかかるものなのだ。

信頼を得て金が入り、時間を失っていく。そういった方向性でやってきて、それでもいいと思ってやってきて、今立ち止まり、思う。
これからの人生は、それでは嫌だ。

でも、生活はどうする? この仕事を続けていく以上、時間は必ず犠牲になる。時間がほしいと思った途端に、仕事は確実に減るのだ。加えて、世の中の不況で仕事そのものが激減している。。。何だ、未来が暗いぞ。そう、思った。

これは賭けだ。残りの人生を賭した行いだ。時間をかけずに生活費を稼ぐ方法を獲得し、僕はこれまでに犠牲にしてきた時間というものの中に浸り込みたいのだ。そういう方向にシフトするために、実はいろいろやってみている。だが、甘くはない。もちろん、甘くない。蓄えはすべてなくなり、そろそろ車を処分しなければならないだろうし、借金生活に入っていくことが濃厚だ。でも、またこれまでの生活に戻るのかと言われたら、激しく「No」と言いたい。言いたいけれど、、、実現できなければ路頭に迷うしなぁ。。。

自分一人ならば、路頭に迷おうが何しようが、いい。妻は。子供は。老いた母親は。どうするんだ? そう思うと、何もかもが踏ん切れない。

時間を犠牲にせずに金を稼ぎ、ゆくゆくは田舎に移り住み、果てしなくゆっくりと思考したい。そんな甘い夢を見てはいけないのだろうか。夢のうちならばいいけれど、実現するための行動をしてはいけないというのだろうか。

いきなり飛躍した話をする。いずれ書くと思うから。
単なる生物である人間の一人として、死んでしまった後のことには何も責任を取れない弱々しい存在として、限りある命のうちにすべきと思うことをすべきと思うことは、いけないことなのだろうか。失敗して家族全員で路頭に迷ったとして、それが何だというのだ? そう思うことは間違いなのだろうか。すべきことをすることが大事なのではないのか? そうしなければ、生まれてきた意味がないのではないか? もちろん、結果オーライであってほしい。そうなるように頑張るさ。だけどリスクが大きすぎる。でも。。。

こうやって、甘い夢は、いつも僕の心に結論のでない迷いを生む。だがしかし。。。人生の残りは少ないのだ。長生きしたとしても、元気な体と思考派もうそれほど長くは続かないのだ。僕だって、老いる。迷っている暇はない。

甘ったれた夢を実現しようとして、僕は墜ちていくのだろうか。

2010年7月25日

思うことを書くスペースであること


小学生の時から、僕は文章を書くことで生きていこうと思っていて、四捨五入すればもう50歳だよ、という年齢に達した今、とにかくはその目的は達している。しかし、子供の頃から思い続けた「文章を書く」という意味は、「小説」であり「詩」であり、芸術的なと言ってはいいすぎではあるけれども、そういった方面の文章を書いて生業としたい、ということであった。

現在、僕の生活を支えている「文章」は、ほぼテクニカル的なものであり、当初の思いとはまったく違う方向に進んできてしまっている。これまでの人生の中で、小説ももちろん書いたし、賞に応募してみたりもした。もちろん、賞をいただいていればこんな状況にはなっていないし、そもそも、そんなにそれほどに、僕は小説や詩を書くことに真剣だったのかと思う節もある。

大学を出て社会人になり、ちょうどその頃からワードプロセッサーや電子編集機、そして、パソコンが一般的となり、理系な頭も有している僕としては、興味ありありでどんどんとそちらの方にのめり込んでいった。社会人の出発はコピーライター見習いとして広告代理店勤務だったのだけれど、理系の大学を出ていたことが災いし(?)、テクニカルな方面にどんどんと進んでしまい、今があるのだ。

僕は、これまでにしてきた仕事をほぼ極めたと実感している。それ故に、この仕事の内容や、世の中に貢献できる範囲や、自分自身の収入といったことに、限界を感じてしまっている。だが、生活をしていかなければならないので、未だに同じ仕事を続けているのだ。

そして、現在の世界的不況があり、誰がなんと言っても日本は格差社会化しつつあり、ゼロレベルから上にいたはずの僕は、現在はゼロレベルの下に向かって真っ逆さまに落ちていこうとしている。一所懸命に仕事をしているにもかかわらず、である。クライアントの信頼も信用も変わらないのにである。それはもう、全世界的な予算削減の憂き目にあったからに他ならない。そして、仕事自体が激減しているからだ。

それはまあいい。とりあえず、現状を書いておかないと、僕がどのような立ち位置にいるかが明確でなくなるので、いささか愚痴っぽくなってしまったけれども、そういう状況にあると言うことを書いておいた。

上だろうが下だろうが、生活しなければならないし、日々飛び込んでくるニュースの数々などを見たり聞いたりしていると、どうしてもいろいろと考えてしまう。若いときは、自分のことにだけ熱中していれば、ある意味OKだったけれども、この歳になってヤケに最近の世間動向が気になるようになった。

さて、自分に何ができるだろうかと考えたときに、効果的なことは何も思いつかないし、行動に移すほどの余裕もない。だったらせめて、自分の武器である文章で、思うことを書いていけばいいじゃないか、というかなり短絡的な発想の下、このblogを立ち上げたのである。

自分個人の思うことをどれだけストレートに書いていけるか、それがこのblogのキモである。もちろん、賛否両論いろいろあるだろうし、激しく非難されることもあるだろう。だけど、僕だって60億を超える全世界の人々のうちの一人なのだ。このblogを見つけて読んでしまったあなただって、60億分の一なのだ。そういう立ち位置ならば、激しく全員が平等なはずである。その一人が自分のblogで何を書こうとも、それは僕の好きにさせてよ、ということである。

忙しい仕事の合間や、晩酌の最中に、ふと思うことがたくさんある。それらを思うとおりに書いてみて、溜めていく。それがこのblogの唯一の存在意義である。

小説や詩にすることは、恐らく僕には不可能だ。そういう才能はたぶんないし。思ったこと、考えたこと、日々感じることを書き連ねていくこの「指」が、何かの意味をもたらす言葉を導き出してくれるようなことを期待するしかない。

さてどうなるか。更新は不定期なので、あまり期待されても困るし、個人の戯言なので、激しい突っ込みも避けたいが。
そして、思いのままに書き殴るので、誤字/脱字はご容赦いただきたい。

とりあえず、始めてみる。