2010年7月27日

甘い夢


自分には果てしなく厳しく、他者には甘く許し、己を磨きに磨き上げるつもりで仕事をしてきた。その結果、プロフェッショナルになれたと思っている。クライアントに信頼を得られるかどうか、そして、金を稼げるかどうかがプロと見習いの境目だが、どちらも達成したと自分では思っている。

決してMではなく、限りなくSに近いと思っているが、Sである自分がとにかくきちんと仕事ができる自分になれるように自分を鍛え、仕事についてだけ言えば、ある意味、達成感がある。

達成感があるからこそ、もうこれ以上、この仕事での張り合いがないし、果たして僕は、仕事のために何を犠牲にしてきてしまったんだろうと、ふと思ってしまったりするのだ。もちろん、生活しなければならないから、より多くの金が得られればうれしいし、仕事を依頼してくれたクライアント二喜ばれてまた次の仕事をいただいたりすることの喜びはかけがえがない。

だがしかし、と思ってしまうのだ。

「24時間・365日、働きます」がスローガンだった。激しく誇張したスローガンではあるが、気持ちは常にこの通りだった。だから、生活していく上での最低限のこと(寝る、食べる、移動する、など)以外はすべて「仕事」だった。もう何も言うなというくらい、仕事だらけだった。そうしないと、依頼された仕事は終わらなかったし、そもそも、僕の仕事はとても時間がかかるものなのだ。

信頼を得て金が入り、時間を失っていく。そういった方向性でやってきて、それでもいいと思ってやってきて、今立ち止まり、思う。
これからの人生は、それでは嫌だ。

でも、生活はどうする? この仕事を続けていく以上、時間は必ず犠牲になる。時間がほしいと思った途端に、仕事は確実に減るのだ。加えて、世の中の不況で仕事そのものが激減している。。。何だ、未来が暗いぞ。そう、思った。

これは賭けだ。残りの人生を賭した行いだ。時間をかけずに生活費を稼ぐ方法を獲得し、僕はこれまでに犠牲にしてきた時間というものの中に浸り込みたいのだ。そういう方向にシフトするために、実はいろいろやってみている。だが、甘くはない。もちろん、甘くない。蓄えはすべてなくなり、そろそろ車を処分しなければならないだろうし、借金生活に入っていくことが濃厚だ。でも、またこれまでの生活に戻るのかと言われたら、激しく「No」と言いたい。言いたいけれど、、、実現できなければ路頭に迷うしなぁ。。。

自分一人ならば、路頭に迷おうが何しようが、いい。妻は。子供は。老いた母親は。どうするんだ? そう思うと、何もかもが踏ん切れない。

時間を犠牲にせずに金を稼ぎ、ゆくゆくは田舎に移り住み、果てしなくゆっくりと思考したい。そんな甘い夢を見てはいけないのだろうか。夢のうちならばいいけれど、実現するための行動をしてはいけないというのだろうか。

いきなり飛躍した話をする。いずれ書くと思うから。
単なる生物である人間の一人として、死んでしまった後のことには何も責任を取れない弱々しい存在として、限りある命のうちにすべきと思うことをすべきと思うことは、いけないことなのだろうか。失敗して家族全員で路頭に迷ったとして、それが何だというのだ? そう思うことは間違いなのだろうか。すべきことをすることが大事なのではないのか? そうしなければ、生まれてきた意味がないのではないか? もちろん、結果オーライであってほしい。そうなるように頑張るさ。だけどリスクが大きすぎる。でも。。。

こうやって、甘い夢は、いつも僕の心に結論のでない迷いを生む。だがしかし。。。人生の残りは少ないのだ。長生きしたとしても、元気な体と思考派もうそれほど長くは続かないのだ。僕だって、老いる。迷っている暇はない。

甘ったれた夢を実現しようとして、僕は墜ちていくのだろうか。

2010年7月25日

思うことを書くスペースであること


小学生の時から、僕は文章を書くことで生きていこうと思っていて、四捨五入すればもう50歳だよ、という年齢に達した今、とにかくはその目的は達している。しかし、子供の頃から思い続けた「文章を書く」という意味は、「小説」であり「詩」であり、芸術的なと言ってはいいすぎではあるけれども、そういった方面の文章を書いて生業としたい、ということであった。

現在、僕の生活を支えている「文章」は、ほぼテクニカル的なものであり、当初の思いとはまったく違う方向に進んできてしまっている。これまでの人生の中で、小説ももちろん書いたし、賞に応募してみたりもした。もちろん、賞をいただいていればこんな状況にはなっていないし、そもそも、そんなにそれほどに、僕は小説や詩を書くことに真剣だったのかと思う節もある。

大学を出て社会人になり、ちょうどその頃からワードプロセッサーや電子編集機、そして、パソコンが一般的となり、理系な頭も有している僕としては、興味ありありでどんどんとそちらの方にのめり込んでいった。社会人の出発はコピーライター見習いとして広告代理店勤務だったのだけれど、理系の大学を出ていたことが災いし(?)、テクニカルな方面にどんどんと進んでしまい、今があるのだ。

僕は、これまでにしてきた仕事をほぼ極めたと実感している。それ故に、この仕事の内容や、世の中に貢献できる範囲や、自分自身の収入といったことに、限界を感じてしまっている。だが、生活をしていかなければならないので、未だに同じ仕事を続けているのだ。

そして、現在の世界的不況があり、誰がなんと言っても日本は格差社会化しつつあり、ゼロレベルから上にいたはずの僕は、現在はゼロレベルの下に向かって真っ逆さまに落ちていこうとしている。一所懸命に仕事をしているにもかかわらず、である。クライアントの信頼も信用も変わらないのにである。それはもう、全世界的な予算削減の憂き目にあったからに他ならない。そして、仕事自体が激減しているからだ。

それはまあいい。とりあえず、現状を書いておかないと、僕がどのような立ち位置にいるかが明確でなくなるので、いささか愚痴っぽくなってしまったけれども、そういう状況にあると言うことを書いておいた。

上だろうが下だろうが、生活しなければならないし、日々飛び込んでくるニュースの数々などを見たり聞いたりしていると、どうしてもいろいろと考えてしまう。若いときは、自分のことにだけ熱中していれば、ある意味OKだったけれども、この歳になってヤケに最近の世間動向が気になるようになった。

さて、自分に何ができるだろうかと考えたときに、効果的なことは何も思いつかないし、行動に移すほどの余裕もない。だったらせめて、自分の武器である文章で、思うことを書いていけばいいじゃないか、というかなり短絡的な発想の下、このblogを立ち上げたのである。

自分個人の思うことをどれだけストレートに書いていけるか、それがこのblogのキモである。もちろん、賛否両論いろいろあるだろうし、激しく非難されることもあるだろう。だけど、僕だって60億を超える全世界の人々のうちの一人なのだ。このblogを見つけて読んでしまったあなただって、60億分の一なのだ。そういう立ち位置ならば、激しく全員が平等なはずである。その一人が自分のblogで何を書こうとも、それは僕の好きにさせてよ、ということである。

忙しい仕事の合間や、晩酌の最中に、ふと思うことがたくさんある。それらを思うとおりに書いてみて、溜めていく。それがこのblogの唯一の存在意義である。

小説や詩にすることは、恐らく僕には不可能だ。そういう才能はたぶんないし。思ったこと、考えたこと、日々感じることを書き連ねていくこの「指」が、何かの意味をもたらす言葉を導き出してくれるようなことを期待するしかない。

さてどうなるか。更新は不定期なので、あまり期待されても困るし、個人の戯言なので、激しい突っ込みも避けたいが。
そして、思いのままに書き殴るので、誤字/脱字はご容赦いただきたい。

とりあえず、始めてみる。