ラベル 夢想 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 夢想 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年2月3日

オカルト話と現実的推測

いやいや、、、(-_-;)。
久しぶりに、本当に久しぶりにやられちまった。

昨晩、夢を見ている自分がいて、夢の中で何やら忙しく仕事をしていたのだ。だいたい僕は、酔っ払って眠ると本当にぐっすりと眠るタイプで、夢は見るけれども、朝起きたらほとんど覚えていない人なのだ。夢を見たかな~程度なのである。

昨晩の夢ははっきりと覚えている。とにかく一所懸命仕事をしていたのだ。バタバタしながら、打ち合わせのためにある人のところに行き、その人といろいろ話していた。

打ち合わせも終わりに近づき、その相手がふっと微笑んだ途端、夢は終わった。そして、まだ眠っている感覚のまま、現実の僕は仰向けのまま、背中からふわっと、直立に布団ごと立たされた。 結構な勢いだったので、「やばい、クローゼットの扉にぶつかる!」と思ったくらいだ。寸前で止まり、また、ふわっと、倒された。

おいおい、かんべんしてくれよ、と思ったら金縛り。やだやだ、金縛りはやめて! と動けなくなる前にもがき、何とかのがれたのだけれど。

そこで目が覚めて、大きなため息をついた。

さて。
別に冗談で書いているわけでもないし、軽い気持ちで書いているわけでもない。朝からこんな文章を書くほどヒマではないので。現実にリアルな体感があったから、わざわざ書いている。

そして、冒頭で、「久しぶりに」と書いているように、僕はこの手の体験は初めてではない。 小中学生のころはよくこういうことがあった。

具合が悪くて学校を休んで2階の自分の部屋で寝ていた時、誰もいないのに階段を上がってくる誰かがいて、音が止まったと思ったらもう僕の上に乗っている、とか。夜、寝ていたら、いきなり体が浮かび上がって天井に押しつけられたり、とか。そして、金縛りはしょっちゅうだった。

社会人になって太ってから(笑)、実はそういうことが全く起きなくなった。最近、ダイエットで痩せてしばらく経ったので、またこういうことが起こったの? と思ったりしている。

現実的推測。

昔のそういう体験があり、霊魂とかあの世とか、あるんだろうなぁ、くらいには思っていた。死ぬ間際の人の体重を特殊な装置で測り、亡くなられた直後に測り直したら35g減っていたので、霊魂の重さは35gだ、なんていうおかしな話にもきちんとだまされたりしていたのだ。

社会人になって、大人の現実の中で生きていくようになると、こういう話が嘘に思えたし、物理的に言って、そりゃないでしょう、って思うようになった。20代くらいですでに霊魂やあの世などの存在は否定的だったし、30、40と歳が進むにつれ、科学的に無理があるんじゃね? という思いは強くなり、昨晩までは完全否定派でした。

人は死んだら、焼かれて骨だけになり、その他の部分は煙になる。つまり、単純な無機的物質に還元されるのだけれど。骨だって、ただの物体だ。意識なんて形も何もないし、そもそも生きていたって目に見えないし、ハードウェアに対するソフトウェアみたいなもので、ハードがなくなればソフトはない。そんな風にとらえていたのだけれど。

そして今。
ちょっと待てよ、と。
正直、思っている。

存在を否定できる根拠もないよね。そう思っている。大人的冷静発想。存在を肯定するにも否定するにも、根拠がない。そういうものだ、オカルトなことというのは。ま、それでいいのだけれど。

で、愛犬と散歩しながら、ふと思いついてしまった。ヒッグス粒子とダークマター。これらって、ほとんど最近の話題であって、昔はその存在がオカルト的だったはず。

ヒッグス粒子は、物質に質量を与えるものだという。ヒッグス粒子がなければ、宇宙のすべての物質は光速で飛び回るしかない(ということだったと思う、、、自信なし)。

ダークマターは、暗黒物質と言われ、人間が宇宙の質量をさまざま計算したところ、こういうものが存在しないと辻褄が合わず、目に見えたり量れたりする物質だけではどうにも量が足りないので、出てきた概念。本当に存在するらしいのだが、正体不明という代物。

ヒッグス粒子が取りついていないダークマター、それが霊魂だったら? 

朝から何を突飛な推測を(笑)。しかも愛犬の散歩をしながら(爆)。

でも、宇宙的には何があってもおかしくない、というか人間の知識や知恵、経験が全く追いついていないのだから、別にそういうのでもいいんじゃないの。

存在するでも、しないでも、いい。でも、いずれ自分の存在も終わるし、そのときに霊魂っていう存在になっていくのだとすると、ちょっとワクワクしないでしょうか(笑)。自分のハードは動かなくなったけど、ヒッグス粒子なしのダークマターになっちゃった、みたいな(#^.^#)。

んー、、、朝からバカだ。。。

2011年7月12日

歳を取るということについて

暇に任せて先日blogに「デブな話」という4回連載記事(長っ!)を追加したりしましたが、カテゴリ設定するのを忘れていたことを思い出し、記事のリスト画面を出したらなんと。「歳を取るということについて」という書きかけの記事がありました。

一月のことのようで、うーん、そういえば、酔っ払ってTwitterで「年を取ることについていずれ書きたい」などと呟いたことを思い出し、ああ、その時に勢いで書いた記事か、と思い出したわけです。

確かですね、その後は怒涛の仕事ラッシュでもうめちゃくちゃになったので、そのまま忘れちゃったんですね、はは。

なので、本文中と今の時制は合いませんが、1月に書かれたものと思って読んでください。後半部分は今日、記事を読み返した上での追記です。

---本文ここから---


何日か前にテレビで昔のヒット曲特集をやっていて、奥さんと一緒に飲みながら観ていたわけなのですが、やはり曲ごとに当時のさまざまな出来事が思い出され、感慨にふけったりしたわけです。


まあ、いつもならそれで終わりですが、1月生まれの自分は今月また一つ歳を重ねるので、いつも以上に「歳を取る」ということについて考えてしまいました。


四捨五入したらもう50歳だよ、なんて45歳の時には笑っておりましたが、それから年月も経ち、45と50の間くらいの年令になってしまうと、マジで50歳が近づいてきているなぁ、と思わざるをえないのでした。


100歳まで生きることができるとして折り返し、ですが、平均寿命で考えれば残り20数年です。しかし、自分より年が上の方々だからこその現在の平均寿命であって、自分たち世代の平均寿命は、食べ物の欧米化や添加物・保存料などの蓄積もあって、先の世代よりも短くなるのではないかという話を以前に何処かで読んだ覚えがあり、もっと短いのではないか? と思ったりもしています。


そうすると?
10数年くらいしか残りの人生がないのかぁ、と思うわけです、はい。


ここでひとつ、変な話をします。
17歳の時にインスピレーションがあり、「ああ、人生の1/3が終わった」と認識しました。。。変な話で恐縮ですが、インスピレーションというのは、理由も根拠もなく湧き出るものなので、そのように認識してしまった17歳の自分はしっかりとそのことを記憶に刻み、その後、齢を重ねてきたわけです。


自分の人生は51歳まで、というインスピレーション。
正しいかどうかなんてわかりませんが、とりあえずそういう事もあって、残りが少ないなぁ、と思っている次第です。


でもですね。
とりあえずここまで生きてきたことは確かだし、そして、ここまで生きてきたという現実を元に考えると、この先、何歳で死のうが大して変わらないんじゃないか、と思うのです。元気な心と体のままで100歳まで生きられるならいいですけれど、ヨボヨボになって体も効かず、心は枯れて生きて行くなんて、ちょっと想像ができないです。


そして、ひとは必ず、いつか死にます。この広大な宇宙において、それだけは絶対に100%実現される確かなことです。だからこそ、一所懸命に生きるし、生きてきたし、歳をとったからと言って、いちいちそのことについてぐじぐじと考える必要もないだろう、と思ったりもします。


ですが、現実として自分がこのような年齢になると、ああ、自分もやっぱり歳を取るんだなぁ、と変な実感があるんですね。いつまでも若いつもりでいますから、なんとなくそういった感覚と実年齢が、実は自分の中で上手くバランスが取れていないというのが本音です。そして、いつか必ず、自分もこの世から退場せざるを得なくなるということが、妙に現実的に感じてきているのです。


たしかに自分は歳を取りました。思い返せば、人ひとりの人生において、すべきイベントはほぼ全てこなしてきたかなぁ、と思いますし、残すは子供たちが無事に成人することくらいでしょうか。



---ここから追記---

4つ年上の知り合いが今、余命数ヶ月と言われています。人工呼吸器につながれて病院で身動きできずという状態です。

いずれ自分もそうなるのだと、もしくは突然の事故とかで、いつか必ず自分も居なくなるのだと、現実的に意識しだしたのは果たしていつごろだったでしょうか。

14歳の時に父親を事故で亡くしているので、死に対する意識というのは現実的に捉えることが出来ていて、結構その類の考え方というのは自分なりに深いものを持っていると思っています。

生まれ出て、自分が居なくなるまでの時間は人それぞれです。歳をとって振り返ってみれば、生を受けてここに存在しているその間に何をすべきか、ということに集約されるのではないでしょうか。

そうは言っても、話は簡単ではなく、与えられた環境と世の中の移り変わり、そして、自分の個性や能力といったものは、もう本当に人それぞれで、何をすべきかとか何かをしたいとか、まったくもって個人の問題なのですね。

すべきことと思えたことが、もしかしたら社会に反することかもしれない。なんか、役立っちゃったかもしれない。全然意味が無いかもしれない。若い頃は自分と社会という対象の上でなんとなく手応えが感じられないものだから、悲観的になったり、空しくなったり、するのだと思います。

ポイントは、いかに自分の適性を知るか、ということであり、自分のしたいことが何であるかをなるべく早い段階で認識出来るか、ということなのではないかと、おじさんになってしまった自分は思うのです。

そういう意味で、僕はまっすぐでした。歳をとったから、まあ、ちょっと偉そうなことを書きますが、10歳くらいの時にはすでに文章を書く仕事をしたいと決めていました。それは、例えば小説家だったり、作家だったりといった、いわゆる文芸的な方面におぼろげに憧れるという程度のものでしたが、とにかく文章を書くんだということだけは決めてしまっていたのです。

まあ、実は野球が好きだったのでプロ野球選手にも憧れたり、音楽が好きだったのでバンドを組んだりしてミュージシャンを目指したりもしましたが、どちらも適性がないことはすぐに分かったんですね。

Twitterのプロフィールにも書いてあるように、僕はスポーツに適した体を持っています。でもなぜダメか。「勝ちたい」って思わないんですね。よく、心技体といいますが、一番大事な「心」が勝負向きじゃないんです。

音楽にしても、頭で考えてギターを弾くような理詰めな性格ですから、曲をコピーするのはいいけれど、創作なんて無理無理です。アドリブなんて無理ですから。

そうやって自分を仕分けていって、やっぱり結局、最初に決めてしまった文章を書いて生きて行くんだ、というところに落ち着くわけです。

(いやいや、偉そうに書きましたが、ここまでの人生、それはそれは、もうハチャメチャですから)

(。。。いずれそのあたりも書きたいですが)

なんだか長くなってとりとめがなくなってきたので、強引に終わらせますが(笑)、要は「短い人生、やりたいことを一所懸命やれ」。ただそれだけなんだよ、ってことです。

僕は笑って死にたいです。死ぬときに後悔があったら嫌だと思っています。でもそれって、日々一所懸命生きてこないとかなわないことだと思うのです。

若い頃は、こういう話をすると周りは笑いました。でも、今この歳になって自分は正しいと思えています。僕の歳のとり方というのは、そういうものなのです。

もちろん、日々の出来事の一つ一つで失敗したり後悔したりすることは少なくありません。でも、そういったダメな出来事も歳をとるに連れてリカバリーする方法とかを編み出せます。そうしてだんだんと自分の道が納得のいくものに近づいてきて、やがて自分の世界は自分が納得出来るものになっていくのではないでしょうか。他人がどう思うかは別の話です。

時間は止まってくれません。今この記事を1文字書いているその1秒だって、自分が居なくなるその時に近付いている証の一つなのです。

そう思ったら、なんで一所懸命やらないかな、なんで好きなことを自分の好きなようにやらないのかな、って考えると思うのですが。。。僕以外の人々がどうあれ、僕はそうしてきました。そしてここまで齢を重ねてきたのです。

これからもずっとそうしていきます。
あとどのくらい残っているのか知りませんが、たとえ突然の事故で即死だとしても、その瞬間に僕は笑って終わりたいです。

言いたいことがあまりうまく表現できませんでしたが、後悔するくらいなら一所懸命やりたい、そう思えるような年のとり方がいいですね、ってことです。

うーん、まとまらん。
でもおしまい(笑)。

2010年12月19日

すっきりしません

なにやら気分がすっきりとしないのは何故なのだろうとずっと考えています。仕事が忙しければ、気分など度外視で仕事に集中するのですが、今、たまたま体が空いてしまっていて、気持ち的にもリフレッシュモードだから、余計なことを色々と考えてしまうのだとは思います。


具体的な事象も何もなく、だらだらと書きます。


はっきり言って、気分がすぐれません。モヤモヤっとしています。胃が重いです。もちろん、なんの問題もなくこんな事にはなったりしません。色々と、モヤッとした問題があるから、グレーな気持ちになるのです。


具体的にはかけませんが、この先の人生、とか、現実的な今の生活は大丈夫か、とか、俺は本当にダメなやつだなぁ、とか思ってみたりと、何でもかんでもネガティブに考えてしまう、そんな感じです。


誰にだってそういう時はありますよね?
こういう事の一番の理由は、何かしらの不安があるからです。ではいったい、僕は何を不安に思っているのかということです。


それがわかれば苦労しません(笑)。


漠然とした不安がいくつもつきまとっていて、多分これはうまくいかない、とか、こんなことをしてしまって俺はまったく、、、とか、ああだいじょうぶだろうか・・・とか、そういった類のものです。


なんだろう、本当に・・・。
ひとつ、ふたつくらいの不安なら、こんな風にはならないと思います。なんだか、いくつもの大小様々な「漠然とした不安」がポツポツと近くにあるから、こんな感じになってしまっている気がします。


自分のこれまでの生き方がダメとか、考え方がおかしいとか、他の人への対応の仕方が間違っているとか、そういう明確な理由なり根拠なりがあれば、対処のしようもあると思うのです。でも、そういうものじゃない。はっきりしなくて、「うがぁっ!!!」と叫びだしたくなる、そんな気分です。


不安があっても、対処方法を考えることができるのならば、こんな風にはならないだろうなって思います。なんだか捉えどころがないから、ぽわ~んと無重力空間に放り出されてしまい、周りに不安という風船がプカプカ浮いている、そんなイメージです。捕まえて、割ってしまえばいいんだけれど、自由に動けないし、不安風船も勝手気ままに動いているし、ただただ無力感に苛まれ、疲れていってしまうのです。


ずっとずっと、いつも一所懸命考えて行動して生きてきましたけれど、別にその結果である現在の自分が正しいとも間違っているとも思いませんけれども、身につけてきた様々なスキルや能力とはまったく別の世界に自分の本体はあるものなので、いざ、こういう気分になったときには、構築してきた自分の武器って、あまり役に立ちません。


。。。誤解のないように書いておきますが、死にたいわけじゃありません。元気に前を向いて、粉骨砕身で仕事をするし、いろいろなことを真剣に考えていこうって、思っています。それでも、なんだか、落とし穴に落ちてしまったように、こんな気分になることがあるんです。不思議な話です。


blogっていいな、って思います。こういう時、好き放題、思ったままを書けるから。


さて、どうしようか~
酒のんでも駄目だろうなって思うし~
もうたくさん寝たから、眠って忘れるということもできそうにないし~
不安を忘れちゃえ、とか思いますけど~
忘れられるなら、こんな事書かないし~


ふっふっふ。
駄目だ、これは・・・


最後の手段かな、これは。
さて、最後の手段とはなんでしょう?


答えは・・・
「逆切れ!」


こんの野郎! 俺を不安にさせているのはいったい何だ!
こぉらぁ~! ぐがぁぁぁぁぁぁ!!! ふざけるな~!


って、相手も見えない状況で、切れまくるっていうのが最終手段です(笑)。
ヾ(゚Д゚ )ォィォィソンナアホナ


そんな馬鹿なことを考えなくていいように、早くまた忙しくなりたいです
(´・ω・`)。


さ~ってとぉ!
好き放題書いて、少しすっきりしたから、呑むか~
ってまだ夕方だった~


駄文ですみませんでした~m(_ _)m




2010年10月2日

思いを馳せる


仕事が忙しいのに、blogを書いている場合じゃないとわかってはいるのですが、仕事「以外」の文章を書かないと落ち着かないのです。

最近、新聞で読んだのですが、グリーゼ581gという太陽系外惑星が地球の環境に近くて、生命の存在の可能性があってもおかしくない、と言うことで、久しぶりに僕はどきどきしました。

一応、理系と文系の両刀と自認していて、少しだけ理系に傾いていると思っている自分としては、幼い頃から宇宙に対して漠然とした想いがあり、いろいろな本を読み始めてから小松左京氏のSFに出会い、むさぼるように読んだものでした。

宇宙物理学とか、天文学とか、目指してみたいなぁ、と10代の頃に思ったこともありましたが、そこまで僕の脳みそは傾いておらず、ただただ、一人の地球民として、誰かが調べてくれて公になった情報を見る立場としてこれまで生きてきました。

小松左京氏の作品については、いずれまた感想なども書く機会があると思いますので、ここでは軽く流しますが、とにかく、小松氏の作品はSFと言えども、全くの「文学」であり、ファンタジーだけでなく、むしろ、人間とか生命に重きを置いているのです。僕は、めまいがするほどの感動と驚きを読むごとに感じ、今でも、何度も、ほぼすべての作品を読み返しています。

また、何年前のことか忘れてしまいましたが、NHKブックスから「異形の惑星」という本が出版されました。タイトルを見ただけで、読みたくて仕方がなくなり、確か大阪からの出張帰りの新幹線に乗りながら携帯でいろいろと見ていたときにその本のことを知り、なぜか京都で降り、京都タワーの中だったか近くだったかの書店で買い求め、帰りの新幹線で読んだという思い出があります。

「異形の惑星」が書かれた頃の系外惑星の状況というのは、この本にも書かれていますが、まさに「異形」なものばかりであり、とても生命が(特に地球人的生命が)存在することなど不可能な惑星ばかりでした。

ああ、やっぱり、地球のような惑星は存在しないのかなぁ、と、読了後におもったのを覚えています。

そして今、グリーゼ581gという惑星の存在が発見され、もちろん僕の胸はどきどきし、もっと調査が進んで詳細な情報を知りたいと思うばかりの今日この頃なのですが、果たして「行く」ことはできるのか? と現実的なことを思ってしまいました。

確かな情報であったかどうか、うろ覚えなのですが、宇宙戦艦ヤマトなどに登場する「ワープ航法」は物理的に不可能であることが実証されたと言うことを何年か前に何かで読んだ覚えがあり、もし居住可能な惑星が見つかったとしても、実際に行くためには、相当に近くなければだめなわけです。

グリーゼ581gの情報をネットで調べ、そこに書かれていることを読み進めてみたところ、地球との距離は20光年とのことでした。

。。。微妙か? でも「20」だし。

1光年がどれほど長大な距離であるかは知識としてもちろん理解しています。でも。「20」という数字は小さいですよね? 宇宙の年齢は150億年であり、大きさは一説に寄れば(膨張速度が光速を越えているので)半径150億光年を超えると言われています。

150億の中の20。。。
よし、と正直思いました。

早速ネットで、現在の最速ロケットでどのくらいかかるものなのかを調べましたが、、、その結果に愕然としました。

。。。75万年

75「万年」ですよ? どれだけですか。開いた口がふさがらないとはこのことで、しばらく呆然としました、まじめな話。宇宙を舐めてはいかんです。こんな距離、ずっとロケットが最大速度で飛ぶことさえ理不尽な話ですから、もう本当に現実的ではないですよね。

こんな時、せめて思いを馳せて、夜空を眺めながら、酒でも飲むしかないのでしょうね。

2010年7月27日

甘い夢


自分には果てしなく厳しく、他者には甘く許し、己を磨きに磨き上げるつもりで仕事をしてきた。その結果、プロフェッショナルになれたと思っている。クライアントに信頼を得られるかどうか、そして、金を稼げるかどうかがプロと見習いの境目だが、どちらも達成したと自分では思っている。

決してMではなく、限りなくSに近いと思っているが、Sである自分がとにかくきちんと仕事ができる自分になれるように自分を鍛え、仕事についてだけ言えば、ある意味、達成感がある。

達成感があるからこそ、もうこれ以上、この仕事での張り合いがないし、果たして僕は、仕事のために何を犠牲にしてきてしまったんだろうと、ふと思ってしまったりするのだ。もちろん、生活しなければならないから、より多くの金が得られればうれしいし、仕事を依頼してくれたクライアント二喜ばれてまた次の仕事をいただいたりすることの喜びはかけがえがない。

だがしかし、と思ってしまうのだ。

「24時間・365日、働きます」がスローガンだった。激しく誇張したスローガンではあるが、気持ちは常にこの通りだった。だから、生活していく上での最低限のこと(寝る、食べる、移動する、など)以外はすべて「仕事」だった。もう何も言うなというくらい、仕事だらけだった。そうしないと、依頼された仕事は終わらなかったし、そもそも、僕の仕事はとても時間がかかるものなのだ。

信頼を得て金が入り、時間を失っていく。そういった方向性でやってきて、それでもいいと思ってやってきて、今立ち止まり、思う。
これからの人生は、それでは嫌だ。

でも、生活はどうする? この仕事を続けていく以上、時間は必ず犠牲になる。時間がほしいと思った途端に、仕事は確実に減るのだ。加えて、世の中の不況で仕事そのものが激減している。。。何だ、未来が暗いぞ。そう、思った。

これは賭けだ。残りの人生を賭した行いだ。時間をかけずに生活費を稼ぐ方法を獲得し、僕はこれまでに犠牲にしてきた時間というものの中に浸り込みたいのだ。そういう方向にシフトするために、実はいろいろやってみている。だが、甘くはない。もちろん、甘くない。蓄えはすべてなくなり、そろそろ車を処分しなければならないだろうし、借金生活に入っていくことが濃厚だ。でも、またこれまでの生活に戻るのかと言われたら、激しく「No」と言いたい。言いたいけれど、、、実現できなければ路頭に迷うしなぁ。。。

自分一人ならば、路頭に迷おうが何しようが、いい。妻は。子供は。老いた母親は。どうするんだ? そう思うと、何もかもが踏ん切れない。

時間を犠牲にせずに金を稼ぎ、ゆくゆくは田舎に移り住み、果てしなくゆっくりと思考したい。そんな甘い夢を見てはいけないのだろうか。夢のうちならばいいけれど、実現するための行動をしてはいけないというのだろうか。

いきなり飛躍した話をする。いずれ書くと思うから。
単なる生物である人間の一人として、死んでしまった後のことには何も責任を取れない弱々しい存在として、限りある命のうちにすべきと思うことをすべきと思うことは、いけないことなのだろうか。失敗して家族全員で路頭に迷ったとして、それが何だというのだ? そう思うことは間違いなのだろうか。すべきことをすることが大事なのではないのか? そうしなければ、生まれてきた意味がないのではないか? もちろん、結果オーライであってほしい。そうなるように頑張るさ。だけどリスクが大きすぎる。でも。。。

こうやって、甘い夢は、いつも僕の心に結論のでない迷いを生む。だがしかし。。。人生の残りは少ないのだ。長生きしたとしても、元気な体と思考派もうそれほど長くは続かないのだ。僕だって、老いる。迷っている暇はない。

甘ったれた夢を実現しようとして、僕は墜ちていくのだろうか。

2010年7月25日

思うことを書くスペースであること


小学生の時から、僕は文章を書くことで生きていこうと思っていて、四捨五入すればもう50歳だよ、という年齢に達した今、とにかくはその目的は達している。しかし、子供の頃から思い続けた「文章を書く」という意味は、「小説」であり「詩」であり、芸術的なと言ってはいいすぎではあるけれども、そういった方面の文章を書いて生業としたい、ということであった。

現在、僕の生活を支えている「文章」は、ほぼテクニカル的なものであり、当初の思いとはまったく違う方向に進んできてしまっている。これまでの人生の中で、小説ももちろん書いたし、賞に応募してみたりもした。もちろん、賞をいただいていればこんな状況にはなっていないし、そもそも、そんなにそれほどに、僕は小説や詩を書くことに真剣だったのかと思う節もある。

大学を出て社会人になり、ちょうどその頃からワードプロセッサーや電子編集機、そして、パソコンが一般的となり、理系な頭も有している僕としては、興味ありありでどんどんとそちらの方にのめり込んでいった。社会人の出発はコピーライター見習いとして広告代理店勤務だったのだけれど、理系の大学を出ていたことが災いし(?)、テクニカルな方面にどんどんと進んでしまい、今があるのだ。

僕は、これまでにしてきた仕事をほぼ極めたと実感している。それ故に、この仕事の内容や、世の中に貢献できる範囲や、自分自身の収入といったことに、限界を感じてしまっている。だが、生活をしていかなければならないので、未だに同じ仕事を続けているのだ。

そして、現在の世界的不況があり、誰がなんと言っても日本は格差社会化しつつあり、ゼロレベルから上にいたはずの僕は、現在はゼロレベルの下に向かって真っ逆さまに落ちていこうとしている。一所懸命に仕事をしているにもかかわらず、である。クライアントの信頼も信用も変わらないのにである。それはもう、全世界的な予算削減の憂き目にあったからに他ならない。そして、仕事自体が激減しているからだ。

それはまあいい。とりあえず、現状を書いておかないと、僕がどのような立ち位置にいるかが明確でなくなるので、いささか愚痴っぽくなってしまったけれども、そういう状況にあると言うことを書いておいた。

上だろうが下だろうが、生活しなければならないし、日々飛び込んでくるニュースの数々などを見たり聞いたりしていると、どうしてもいろいろと考えてしまう。若いときは、自分のことにだけ熱中していれば、ある意味OKだったけれども、この歳になってヤケに最近の世間動向が気になるようになった。

さて、自分に何ができるだろうかと考えたときに、効果的なことは何も思いつかないし、行動に移すほどの余裕もない。だったらせめて、自分の武器である文章で、思うことを書いていけばいいじゃないか、というかなり短絡的な発想の下、このblogを立ち上げたのである。

自分個人の思うことをどれだけストレートに書いていけるか、それがこのblogのキモである。もちろん、賛否両論いろいろあるだろうし、激しく非難されることもあるだろう。だけど、僕だって60億を超える全世界の人々のうちの一人なのだ。このblogを見つけて読んでしまったあなただって、60億分の一なのだ。そういう立ち位置ならば、激しく全員が平等なはずである。その一人が自分のblogで何を書こうとも、それは僕の好きにさせてよ、ということである。

忙しい仕事の合間や、晩酌の最中に、ふと思うことがたくさんある。それらを思うとおりに書いてみて、溜めていく。それがこのblogの唯一の存在意義である。

小説や詩にすることは、恐らく僕には不可能だ。そういう才能はたぶんないし。思ったこと、考えたこと、日々感じることを書き連ねていくこの「指」が、何かの意味をもたらす言葉を導き出してくれるようなことを期待するしかない。

さてどうなるか。更新は不定期なので、あまり期待されても困るし、個人の戯言なので、激しい突っ込みも避けたいが。
そして、思いのままに書き殴るので、誤字/脱字はご容赦いただきたい。

とりあえず、始めてみる。